ホイアンの「寺橋」「来遠橋」「日本橋」論争 

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最近ではランタンの街として多くの観光客が訪れるホイアン。かつては朱印船貿易で栄えた街でした。
運河に囲まれた美しい港湾都市ホイアンには「日本橋」と言われる有名な橋があります。
どれだけ有名かというと、ベトナム紙幣2万ドン札に描かれているほどです。
ただ、ベトナム人は「日本橋」とは呼ばずに「Chùa Cầu(寺橋)」と呼びます。
この橋は「祠」があるため、参拝客も訪れる橋の役割を持ったお寺なんです。
2万ドン札があれば、屋台でバンミー1個くらいは購入できるので、ベトナム人にとっては使用頻度の高いお札です。
そんな国民的紙幣の2万ドン札に描かれている「寺橋」が、なぜ日本人にだけ「日本橋」と呼ばれているのでしょうか。
この記事では俗称の「寺橋」と進めていきます。

20000vnd

ベトナムの紙幣 20000ドン札

来遠橋と日本橋


まずGoogle mapで調べると、「来遠橋(日本橋)」と記載されています。
その日本語の下に「Chùa Cầu Hội An Quảng Nam」とベトナム語名もあります。
「Chùa Cầu」は冒頭でお伝えしたとおり「寺橋」という意味です。

来遠橋(Lai Viễn Kiều)のゆえん

「来遠橋」のゆえんは、「遠くから来る人が通る橋なんだろうなぁ」となんとなく漢字から意味が読み取れますね。
この橋の東側がホイアン旧市街の中心地になっています。そのため、遠くから来た人は西側から東側に向かってこの橋を渡ったと想像できます。だとしたら川沿いのグエンズー(Nguyễn Du)通りあたりに、船を停泊させて、海外から来た商人はホイアンの街に入ってきたのかもしれません。
来遠橋(Lai Viễn Kiều)というの名前は、1719年に名付けられました。
当時のクアンナム(広南)国王の阮福淍(Nguyễn Phúc Chu)が、論語の「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」から名付けたとされたといいます。
個人的には、この「来遠橋」という名前が好きです。
「寺橋」だと俗称っぽいし、日本的な特徴がみられないこの橋を「日本橋」と呼ぶことには抵抗があります。

日本橋とよばれるゆえん

これは、ベトナムガイドブックや多くのネット上の記事で多く見られるのでご存知ですよね。
「日本人がこの橋を架けた」とされているからです。
16世紀末ころから徳川幕府が鎖国するまでの間、ホイアンと日本では活発に朱印船貿易が行われていました。
当時のホイアンはファイフォと呼ばれていて、16世紀末〜18世紀間のベトナム中部に半独立国家として成立していた広南国(クアンナム国)の都市でした。
時代的には後黎朝期となりますが、ベトナム中部は広南国が支配、しかも勢いがありチャンパ王国やカンボジアの領土を削り取っく時代でもありました。
ホイアンは海から10km程度内陸部にあり、豊かなトゥボン川には波もなく小型船を停泊させるには良い街でした。
しかし時代を経て、貿易に使われる船が大型化すると、不便になり港湾都市としてはダナンにその地位を讓ることになります。
それ故、ホイアンはベトナム戦争の戦禍を浴びることなく、中世から続く町並みが残りました。

かつてのホイアンには1000人以上の日本人が住んでいたと言われています。そして、いまのホイアンの街をみればわかるように多くの中国人も住んでいました。
寺橋の西側のディン(Đình Cẩm Phô)と呼ばれる集会所の前庭地下約60センチのところから、中国、ベトナム、そして日本の陶磁器(伊万里焼)が発掘されています。
広南国の領主は、日本人と中国人に人口に応じて家屋を建てる特権を与えました。日本人町と中国人町が成立し、各町に統治官が置かれ、各国の風俗と法に従って生活していたそうです。

日本人町がどこにあったのでしょうか。
ここからは筆者の勝手な想像になりますが、寺橋西側のエリアに日本人が住み、寺橋東側に中国人の町があったと考えています。
ホイアンのメイン通りであるチャンフー通り沿いやその周辺には、中国人が出身地別に立てた会館があります。「福建会館」や{広東会館」「潮州会館」「海南会館」などがあり、その他に航海や漁業の守護神として「媽祖」を祀る「天后宮」もあります。

地図をみればわかりますが、寺橋の架るトゥボン川の支流はそれほど長くありません。この橋を渡らずとも少し遠回りして川沿いを歩けば反対側へ行けます。もしかしたら、日本人町と中国人町が出来た頃には、この橋がなかったのかもしれません。
その後、両町の行き来が増えるにつれて、遠回りするのが不便になり、日本人が橋をかけた。

ここまでは、筆者の勝手な想像です。
ですが、残念ながらいま「日本橋」とも呼ばれる「寺橋」に日本らしさは感じられません。

日本橋の成立ち

日本橋

歌川広重 日本橋雪中

日本橋といえば、歌川広重が浮世絵に残してくれているこの橋をイメージしますよね。
日本人が橋を架けるとしたら、木造の橋です。
そして橋に屋根はなく、このようにただ渡るだけの橋だったのではないでしょうか。
日本でも屋根付きの橋なんてものはめったに見かけません。

ホイアン 寺橋

ホイアン 寺橋 橋を支える構造は礎石造り、建築は木造。屋根には仏教のシンボル法輪が飾られています。

ホイアンの寺橋は、一見木造のように見えますが、よく見ると手すりから下は石橋です。
内部の床に木板が張られていますが、建築部部分を取っ払ってしまえば石橋が残ります。
ですので、たとえ当時にこの場所に日本人が橋を架けていたしても、現在は木造の橋は取っ払われてしまった。
もしくは、当時のベトナム人や中国人が当地の構法で石橋を架けた、ということも考えられます。

日本橋 内観

ホイアン 寺橋 内観 屋根梁柱床すべて木造

今の姿になったのは、「来遠橋」と名付けられた1719年以降だと考えられます。「来遠橋」の名付け親である阮福淍(Nguyễn Phúc Chu)によっていまの姿に近い形されたのだと思います。申年に建築が始まり戌年に終わったことから、橋の両端には申と戌の木像がありますが、これを設置されたのもその時でしょう。
18世紀の日本は鎖国の真っ只中であり、16世紀にホイアンに暮らしていた日本人は帰国、もしくは現地の人々と交わりベトナム化していきました。日本人は他国で暮らしても、中国人のように独自の文化圏を維持し続けずに、現地化していく民族のようです。

そしてこの寺橋の不思議さは、橋が「寺」になったことです。橋の中央部に祠があり、橋を渡るのは無料ですが、祠に入るのは有料になっています。
なぜ、橋をわざわざ「寺」にしたのでしょうか。それはいまは姿なき日本人町を偲ぶ意味でもあったのでしょうか。

日本人が「日本橋」と呼ぶホイアンの「寺橋」、いまの姿に日本らしさを感じることは出来ません。
しかし、ここで暮らした日本人の暮らしを想像し、「日本橋」の意味を考えてみると歴史と場所が交わります。ベトナム人と日本人と中国人が共同生活していた町ホイアン。当時のベトナムでも国際的な都市でした。
この「寺橋」はホイアンのメイン通りであるグエンティミンカイとチャンフーをつなぐ重要な橋であり、越・日・中の人々が行き来していたことが思い描くことができます。中世の頃から他国の人をつなげる架け橋としての役割を果たしてきました。
そう考えるとこの「寺橋」がベトナム紙幣に描かれている理由がわかる気がします。

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